福岡県北九州市若松出身の、芥川賞作家がいます。
火野葦平(ひの・あしへい)。
1937年、葦平が30歳の時、日中戦争が勃発。
召集令状が届きます。
戦地におもむく壮行会の会場。その片隅で書き上げた小説『糞尿譚』を友人に託し、中国、上海にほど近い杭州に旅立った葦平。
戦地に、友人からうれしい便りが舞い込みます。
「貴殿の小説が、芥川賞を受賞」
文藝春秋社、菊池寛(きくち・かん)の命を受けた、小林秀雄が杭州に行き賞状を渡すという、前代未聞の陣中授与式が行われました。
春の陽の光がキラキラ舞う湖のほとり。
葦平は、小林特派員から、うやうやしく賞状を受け取ります。
カメラのフラッシュがバシャバシャとたかれ、マスコミはこの様子を大きく報じました。
無名だった、ごくごくフツウの兵隊は、一躍、時のひと。
この受賞が、彼の運命を大きく変えました。
葦平は、その後、軍部に初めてできた報道部に転属。
戦争の様子を事細かに伝える、いわば、従軍記者の任を受けることになったのです。
兵隊たちの生々しい人間模様や戦争の過酷さを書き綴った従軍記『麦と兵隊』は、たちまち大人気。
『土と兵隊』『花と兵隊』と合わせた兵隊三部作は、300万部を超える大ベストセラーになります。
ただ、この作品で、葦平は「兵隊作家」というレッテルを貼られることになりました。
戦争が終わったあとも、そのレッテルを払拭するのは難しく、一時は、戦犯として、誹謗中傷の渦に巻き込まれます。
そんな葦平が、再起を賭けた記念碑的な作品が、自らの両親をモデルにした、『花と龍』という小説でした。
北九州市立文学館で、令和2年に開催された火野葦平没後60年の記念展。
そのサブタイトルは、「レッテルは かなしからずや」でした。
これは、ひとにレッテルを貼って区分けしてしまう恐ろしさ、哀しさを誰よりも知っていた葦平の言葉です。
いかにして、彼は、己のレッテルと戦ったのでしょうか。
52歳で自ら死を選んだ文壇の寵児、火野葦平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?